「美学の逆説」谷川渥
 
「Ⅱ 崇高と芸術 カント『判断力批判』に即して」

カントの議論において崇高概念と芸術とが結びつく可能性があるのかどうか、もしあるとすれば、それはどのようにしてであるのか

 
崇高に関して

  • 「崇高」の一般条件:

「相対的に法外なものに類する」こと
「提示するには大き過ぎる」こと
 
参考:
力学的崇高のメカニズム。

一方に、提示しようとする「全体の理念」、他方に、想像力の空しい努力。

「想像力の空しい努力」とは、想像力の二つの働き、部分から部分へと無限に進行する、継続的な「把捉」と、それらの瞬間的な「総括」のアンバランスな不完成、つまり「把捉」を完全には「総括」しえないということ。
 
「芸術(美)」に関して

  • 「美」であるからそれは「美的理念」の表現である。

芸術が美的技術*1であるかぎり、そこでは美的理念が対象の概念を通して誘発されねばならない

  • ひとり「天才」≒「精神(ガイスト)」のみが範例的に芸術を創造する。

「天才」は、こうして想像力によって自然から素材を借りながら「自然を凌駕する」ものをつくり出す。

 

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カントにおいて唯一直接的明示的に崇高と結びつけられている「言語(言葉)」としての「芸術」。

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芸術についてのカントの言語至上主義的アプローチ。

  • カントは「言語」をアナロジーとして、芸術を分類する。
  • 「あらゆる芸術のうちで最上位を主張するのは詩である」

その他の一切は付けたりであるとあえていってもいいほどである。言語芸術は君臨する。

 
詩(人)に関するカントの文章について

想像力と理性の競合、そして「総括」と「把捉」という崇高体験に不可欠な想像力の働きが述べられている点で、これは「ほとんど」崇高の説明そのものである。

 

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リオタールはモダニズムの美学について「崇高」を持ち出すが、それは「カントの崇高論におけるこうした言語芸術的なものへの傾動」をほとんど汲んでいない。
 

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思いついたこと
→カントにおける非自然?に対しての「自然」の優位、控えめにおおざっぱにカントの「自然」観について
→カントにおける「美的理念」と「理性理念」の関係について
→著者がみる「判断力批判」の根幹たる「趣味判断」という逆説について、またはカントの「質料」と「形式」の峻別について
→リオタールの「崇高」について
 

*1:本文では傍点を代りに太字で示している