スピノザ「知性改善論」
 
「真実・最高の善」のための。
 
「真の善」「最高の善」のスピノザによる解を解釈する。
・人間にとって普通、善悪は相対的である。
・善悪は完全・不完全と同様である。
・事物の本性においては本来、完全も不完全もない。

生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起する

・人間は無力であり、そのような永遠の秩序を把握できない。
・しかし人間は、そのような秩序を把握できる完全性(本性)としての人間本性を考え、それと合一することを望みうる。
・そのような完全性に到達するための手段になりうるところの全てが「真の善」である。

最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになること

                                                                              • -
                                                                              • -

「出来る限り」という留保はあれど、「他の人々と共に」「こうした本性を享受するようになること」を「最高の善」としているところが一つ大きなポイントであるだろう。これを例えば「公共性」あるいは「道徳」といっていいかわからない。「完全性」がこのスピノザの主張を要請するとしたら、そのような概念も勿論カヴァーされて然るべきであるとは考えられる。
 
さて、本性=完全性については、続く箇所に

精神と全自然との合一性の認識

とある。
注によると、これはスピノザの全思想を遍く貫かんとするテーマであるようだ。
 
その背景にあるであろう、スピノザの自然観、および彼の自然観を醸造したであろうところの当時の自然科学の学的、体系的、実際的内容と、21世紀の我々のそれらとは大きな懸隔がある、もっと言えば全く異質であると考えてしまう。言ってみれば、スピノザの自然観はより素朴である、という具合に。というのは、言わずもがな、現代科学の隆盛であったり(これもそれ自体では素朴であるかもしれないが)、あるいはその科学の根拠・成立自体を問う科学、メタ科学、超科学、科学の自己言及性、パラダイム理論、諸々の科学哲学というような、それ自体で成立しないという意味で、素朴さを失効させるような成果があるからである。といっても、私はそれら現代科学乃至それにまつわる言説についてはほとんど印象以外のもの、知識、知見、体系的学説、言説などを持つものではないのだが。
 
ともあれ、スピノザはここから、「最高の善」のため、本性のために、まずもって知性を正しく用いるための実際的な方法の内容を述べていく。
 

                                                                    • -
                                                                    • -

思考の方法論に関して何か益する知見、発想を得られればと思って本書を紐解いたのだけれども、使われている概念が難渋であり、一定の理解を確立できるかどうかわからない。一通り読んではみる。
 

「美学の逆説」谷川渥
 
「Ⅱ 崇高と芸術 カント『判断力批判』に即して」

カントの議論において崇高概念と芸術とが結びつく可能性があるのかどうか、もしあるとすれば、それはどのようにしてであるのか

 
崇高に関して

  • 「崇高」の一般条件:

「相対的に法外なものに類する」こと
「提示するには大き過ぎる」こと
 
参考:
力学的崇高のメカニズム。

一方に、提示しようとする「全体の理念」、他方に、想像力の空しい努力。

「想像力の空しい努力」とは、想像力の二つの働き、部分から部分へと無限に進行する、継続的な「把捉」と、それらの瞬間的な「総括」のアンバランスな不完成、つまり「把捉」を完全には「総括」しえないということ。
 
「芸術(美)」に関して

  • 「美」であるからそれは「美的理念」の表現である。

芸術が美的技術*1であるかぎり、そこでは美的理念が対象の概念を通して誘発されねばならない

  • ひとり「天才」≒「精神(ガイスト)」のみが範例的に芸術を創造する。

「天才」は、こうして想像力によって自然から素材を借りながら「自然を凌駕する」ものをつくり出す。

 

                                                                                                                          • -

カントにおいて唯一直接的明示的に崇高と結びつけられている「言語(言葉)」としての「芸術」。

                                                                                                                            • -

 
芸術についてのカントの言語至上主義的アプローチ。

  • カントは「言語」をアナロジーとして、芸術を分類する。
  • 「あらゆる芸術のうちで最上位を主張するのは詩である」

その他の一切は付けたりであるとあえていってもいいほどである。言語芸術は君臨する。

 
詩(人)に関するカントの文章について

想像力と理性の競合、そして「総括」と「把捉」という崇高体験に不可欠な想像力の働きが述べられている点で、これは「ほとんど」崇高の説明そのものである。

 

                                                                          • -


リオタールはモダニズムの美学について「崇高」を持ち出すが、それは「カントの崇高論におけるこうした言語芸術的なものへの傾動」をほとんど汲んでいない。
 

                                                    • -
                                                  • -

思いついたこと
→カントにおける非自然?に対しての「自然」の優位、控えめにおおざっぱにカントの「自然」観について
→カントにおける「美的理念」と「理性理念」の関係について
→著者がみる「判断力批判」の根幹たる「趣味判断」という逆説について、またはカントの「質料」と「形式」の峻別について
→リオタールの「崇高」について
 

*1:本文では傍点を代りに太字で示している

意識の諸状態の強さにも色々ある。そのことが「大きさ」と「強さ」を同一視する問題の理解に困難を招く。
例えば、「いかなる外延的要素も介入しない」、当否はともかく「自分だけで完結しているように見える」「深い喜びとか悲しみ」「反省的な情念」「美的感動」。
 

                                            • -

岩波文庫ベルクソン「時間と自由」を読む。 
何が書かれてあるのかを理解することに努める。
 

                                      • -

序言から。
 
「持続と延長、継起と同時性、質と量とを混同していることをはっきりさせる」ことで、「自由の問題そのもの」が消滅する。その論証がこの本の最奥のテーマである。
 

                                          • -

第一章から。
 
「感覚、感情、情念、努力」は「意識の諸状態」である。これらの「強さ」を、「大きさ」と同一視することに問題はある。「大きさ」は量である。「強さ」は量ではない。
 
「量は増減可能であり、そこには言わば<より大きいものに包まれているより小さいもの>が認められる。だとすれば、量というものはそのこと自体からしてまさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだということになる」
 
量は延長である。非延長的な意識の諸状態を量化することには矛盾があるが、我々は日常的にそれを行なう。例えば、日常的コミュニケーションとしての感情表現。
 
これらの意味は?
 
→意識の諸状態に量的な原因を求める方向。意識の科学的説明。
意識の諸状態を規定する量を、我々はその時、つまり当の意識の諸状態である時、知らない。我々は意識を直接意識する。
 

例えば、全くインターネットをしない人間がいる
ということはどういうことか。
 
そういう人間は実在する。
 
その場合その人間には、二区分で言うところの
「リアル」しかないのか?
 

                                        • -

人間の総数=インターネット参加者の総数
という事態のみが「ネットとリアル」の二区分を
成立させはしないか?
 

「ポップな消費」で意味するところは大まかに
消費のための消費(たくさんの消費がありそう)。
本当のことがなくても元気。
 
悪く言えば、政治(態度)的に無責任なのかも。
(例えば、政治すらポップに消費されるとの弁)