バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

この書によると「欲求」が動物的直接性であり、「欲望」が人間的なものである、と、
ひとまず荒っぽく言える。バタイユの「欲望」は弁証法的であり、このあたり彼が強烈な
影響を受けたといわれる、ヘーゲルコジェーヴの発想を伺わせる。
「欲求」→「欲望」→「欲求´」と図式化できるだろう。
これは否定の弁証法的プロセスである。「欲望」は直接的な「欲求」を否定した先にある。
だがその当の「欲望」は更に否定のプロセスを推し進め、自己から「欲求」を、直接性を
窺うのだ。ところが、人間的な「欲望」はもう原的な直接性には戻れない。そのような
「欲望」の否定的な行き先の着地点を「欲求´」として表した。「欲求´」は勿論「欲求」
そのものではない。
 

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以下ではこの書の第7章「欲望論から文学=芸術論へ」をまとめつつ、バタイユの「欲望」
の概略を色々な側面から追っていく。
 
まず「聖−俗」という側面。「聖」についてはひとまず置いて、「俗」から理解する。
あえて単純に図式的に捉えれば、「俗」は上記の「欲望」側を指す。つまり「欲求」
を否定するプロセスの先にあるものだ。このプロセス自体は人間化とでも言えよう。
動物的直接性からの離脱。その拒否。実際的な意味でその端緒の契機は何で
あるのか、というのは一つ大きな問題であろうが、ここでは問わない。この人間化
は様々な側面を持つ。例えば、言葉を使うこと。道具を使うこと。いわゆる「理性的」
に振舞うこと、等である。これは動物的な直接性から離れた、それを廃棄したところ
にしか現れ得ない。こうして人間は高度に人間化される。このような人間に対象化
される世界を著者は「事物化」された世界と呼ぶ。そしてこれこそが「俗」の世界
なのである。となれば「俗」とは以上の文脈に則る限りで、「人間化」などと言える
ものであるかもしれない。
ではその上で「聖」とは何か。それは再び図式的に捉えれば「欲求´」側に置かれる
のだけれども、ここで問題になるのがバタイユの「欲望」の本質の捉え方である。そこで
考えられる「欲望」とは、上記通り、確かに「欲求」からの離脱であり、人間化という
拒否の側面を持つ過程における、自己所有であったり、自己同定であったりするのだが、
本質的には、始原の直接性、つまりかつてその元を離脱したところの直接性を再び
取り込もうとするものなのである。何故そうなのか。それは「至高性」という概念によって
説明される。