交換一元論で論文を進めたいけれど、その内容が如何せん説得力に欠けて困る。まず対応するテキストがないということ。ないと判断するほど徹底的に調べてないけれど。ともかくこれが痛い。無いと進められないというわけではないけれど、それ無しで論文として説得的な内容を展開することは、論文作成要覧にももとるし、何より技術のレベルでの困難がある。要するにそういうの書くことができないということ。象徴的になら書けるけれどなあ、とうそぶく。というよりは「交換一元論」の「交換」がもう象徴だから、とか。まぁ象徴性と説得性が相反するかどうかっていうと、確実にそうは言えないかもしれないから、やはり私の技術の問題だということにしておく。そう、「交換」て何かね、って問われても、「交換」って「交換」なんですよってお定まりトートロジーである返答。でも確信としてある。間違いないね。そう「交換」って広すぎるからな。そこから説明していかないといけない。社会的交換、経済的交換はわかりやすいだろう。でもそれだけじゃなくて、例えば、1=1(同一律)は交換だし、「私は男です」(述語判断)も交換。形式論理のレベル、だと思う。指差すことも交換。しゃっくりするのも交換。シニフィエシニフィアン。サイン、シンボル、インデックス。全部交換。人間の営為全て交換。物理現象全て交換。つまり何かは即自的に、単独で何かではない、ということ。全部交換されてる。意味している、って言い換えられると思う。1は1を意味する。しっくりくる。しゃっくりは横隔膜の痙攣を意味する。もしくはそれで説明できる。でも「意味する」あるいは「説明する」じゃ抜け落ちるのが、「等価」というニュアンスで、それは合理性一般とでもいえるだろうかしら。ともかく意味するではそういうニュアンスがいまいち出ないような気がするので、「交換」を選ぶのだけれど。つまり「等しさ」ってのがあるから交換してると。等しいから交換は可能である、と。ここまでが一段目。二段目はその「等しさ」の正当性、根拠。これは実は証明できない。1=1であると証明することは出来ない。しゃっくりは横隔膜の痙攣云々も同じ。合理性一般が非合理であること。この事態が何を意味しているのか。我々は実践的に交換できるけれど、そして事後的にその交換を正当化するけれど、それは根本的な解決にはならない。この話の流れは「私的言語」のパラドックスに通じるな。つまり私は私だけの規則に従うことが出来るだろうか。これは無限後退に陥る。規則に従う規則に従う規則に従う×∞。私は私だけの規則に従うことが出来るかどうか証明できない。私は私の交換を証明できない。記号論を使うか、構造主義的に解決するか、形式論理の領分か、何でもござれ。カント、ヒューム、ニーチェフッサールウィトゲンシュタイン柄谷行人エトセトラ。
 
時間が関係あると思う。多分時間が止まったらこれは解決する。