卒論を自己満足に載せて、時間をつぶす。
 
バタイユの普遍経済論にみる存在論と倫理の架橋」
 
 
序章
 
バタイユの普遍経済論は単なる一経済学説などではない。このことは筆者が今更言い立てる必要のないほど周知であるだろう。それは、まず人間の存在論であり、宇宙の物理エネルギー論でもあり、果ては政治政策や、倫理論をも含む壮大な理論である。勿論経済理論としては、従来の限定的な経済理論とは全く異質でありながら、なおかつそれらを包括しうるものだ。その中核にあるのがバタイユの「蕩尽」の思想である。私は以下において、このバタイユの「蕩尽」の思想の存在論的側面と倫理的側面における可能性をテーマにして論を進めていこうと思う。
まことに浅はかの限りで、僭越にも程があり、身の程知らずなこと甚だしいのだけれども、不肖ながら筆者はこの世界の全ての物事は「交換」、とても広い意味での「交換」によって説明できると仮説的に考えている。この場合の「交換」の射程はとても遠大になるはずだ。であるから、この「交換」それ自体はとても説明に窮する対象なのであるけれど、あえて例を挙げるならば、例えば、社会的交換や経済的交換はわかりやすいものであるといえよう。これは具体的に「交換」と名付けられている営為であるので、即物的なイメージを与えてくれるからだ。その他には、論理学でいうところの同一律なども交換の分かりやすいイメージを喚起してくれる。これらの「交換」の第一のポイントは、交換が成立するにはその当の交換されるもの同士が(なるべく)等しくなければならないことである。例えば、1000円の本を購入する場合、その本=1000円であることが、等価交換の原則である。またA=Aという同一律は当然AとAが等しいと、同じであるいうことをいっている。しかしこの等しいということは一体どういうことなのだろうか。そして等しくなければ交換は成立しないのだろうか。ここに交換の第二のポイントがある。交換の成立に欠かせない等しさはそれ程自明なことではない。むしろそれは何を意味しているか全く定かではないのではなかろうか。これはうがった見方というよりは、もう単なる屁理屈のレベルでしかない、とそのようにいわれればそれまでである。しかし、交換はそれ程合理的なものではない。否むしろそれは非合理である、と敢然と主張したい次第なのである。そして、極めて恐ろしいことに、この交換という人間の営為は、そのような合理非合理を全く斟酌すること無いが如くに遂行されていくのである。人間は交換を止めることは決してないのだ。筆者がバタイユの普遍経済論に沿ってこの小論を進めようとする主観的動機ならびに問題意識はここにある。
この小論に客観的な意義があるとすればこうである。我々がそこに生活するところの現代高度資本主義社会の危機は、何も今に始まったことではない。このような言い方は曖昧に過ぎるだろうかといえば、そうでもない、我々にはそれに対して思い当たるところが多すぎるというのが実際ではないだろうか。見田宗介はその著作「現代社会の理論」(1)において、我々の社会の行く末のモデルとしてバタイユの「蕩尽」≒「消費」理論を援用している。筆者はこの文献から多大な示唆を受けたのだけれども、この小論においては、その示唆を有効に活用しつつも、またそれとは異なる観点から、この社会における個人のあり方を模索しようと試みる。
 小論の具体的な構成については、まずバタイユの普遍経済論の前身であるところの論文「消費の概念」(2)から、彼の普遍経済論とは相容れない従来の限定的経済論の諸概念の成り立ちを暴きだしつつ、また、彼の普遍経済論における中核である「蕩尽」という概念をなぞりながら、彼の理論的中枢である「呪われた部分」(3)へと歩を進める。うまくいけば、特殊から普遍へと概念的な昇華を得ることができるであろう。
 
第2章
 
ここではまずバタイユの「消費の概念」によって消費の二つの様相に迫り、限定的な経済概念、即ち従来の経済的合理性に貫かれる諸概念の発生が如何にして起こったかを見てみようと思う。
 
「有用性」への疑問、批判
 
「有用という言葉を根本的にどう解釈するかによって論議の方向が左右されるたびごとに、言い換えれば人間社会の生命にかかわる本質的問題に取り組むたびごとに、介入する人間と、代表する意見のいかんを問わず、論議は必ず歪曲され、根本的問題は回避されると言いきってよいだろう」(1)。「現行の諸概念がいずれも多少とも食い違っている以上、人間にとって何が有用かを決定しうる、正確な手段はまさになに一つ存在しない」(2)。バタイユは「有用性」というものに強烈な疑問を付している。「有用性」とは何であるのかを強く批判的に問うているのである。「有用性」の概念は一体いかなるものであるのか。それはバタイユにしてみればこのようなものだ。「総じて、社会活動に関するいかなる一般的判断も、個々の努力はすべて、価値を有するためには、生産と保存の基本的必要に還元しえねばならぬ、という原則を暗黙裡にふまえている」(3)。これが「有用性」の原則なのだ。「その原則は理論上は快楽を掲げており―ただし強烈な快楽は病的なものであるという前提のもとに、もっぱら穏健な形態のもとで―一方ではおのずから資産の獲得(実際には生産)および保存に―いま一方では人間の増殖と維持に専念している」(4)。これは言うならば「有用性」のとても一般的な解釈であるといってさしつかえないだろう。「有用性」が遵守するものは生産と保存である。これだけが必要とされるといっても言い過ぎではない。無駄なものは切り捨てられ、他目的的に役立つものだけが必要とされるのである。ではバタイユはそのような「有用性」に対して、どのような概念を提示するのか。ここでポイントとなるのは先の引用中の「快楽」という言葉だ。
 
快楽
 
バタイユが持ち出す「快楽」は一応先の引用通り「有用性」の原則に組み込まれているが、それはかなり割り引かれてのものなのである。その本来性はそこでは致命的に損なわれている。つまり、「快楽は、芸術の場合にせよ、公認の放蕩、もしくは遊びの場合にせよ、流通している知的表象の中では、けっきょく妥協、つまりせいぜい副次的役割の慰安に還元される。生の最も味わい深い部分が、社会的生産活動のための条件と―時には忌むべき条件とさえ―見なされるのである」(5)。快楽は「生の最も味わい深い部分」であるのにも関わらず、「有用性」に準ずるものとしてその原則に組み込まれてしまうのである。それは本来「おぞましいもの」(6)であり、「野蛮な欲求」(7)であるのに。このようにバタイユが快楽に意味づけるものは通常より大きい。
 
生産的消費と非生産的消費
 
以上から「快楽」と「有用性」のどちらをバタイユが重要視しているかは無論明白である。さてその当の「快楽」は人間の営為における消費という局面から見るならば、以下のような対図式の一項なのだ。「獲得し、蓄積する権利、もしくは合理的に消費する権利は、自分の中に認めるが、非生産的消費は原則として排除するのだ」(8)。これは「有用性」に関する社会的通念と「快楽」のそれとの関連の、「すねかじり息子の欲求充足と父親との対立をかもし出す狭量な判断」(9)としての例えの中の一節である。ここで触れられているのは、消費に2種類があるということである。つまり、有用性を志向する消費と、快楽を志向する消費の2種類である。一般的な「有用性」概念は後者を閉め出してしまう、というのが先の比喩の示すところである。この論文の後の部分では改めて以下のように提言として一般化される。「人間の活動は生産と保存の過程にことごとく還元されるものではなく、支出もはっきり二つの部分に分けられるべきである」(10)と。「人間の活動」の中で、先の2種類の「消費」を質的に異なるものとして考えるべきであると彼はいうのである。「消費」を二つに分けるという発想は、それ自体奇態な代物であると思われるであろうけれども、要は先ほどから筆者がこの論を展開にするにあたって援用しているところの二つの概念、「有用性」と「快楽」をそれぞれが志向するということをあらためて記しておく。さてバタイユはこの2種類の消費についてより具体的に言及しているのでそれを見てみよう。
まず有用性をその旨とする「生産的消費」について。「還元可能であり、一定社会の個々人にとっては、生命維持および生産活動の継続のために必要な、最小限の品物の使用という行為によって代表される。従って、問題になるのはひとえに生産活動の基本的条件のみである」(11)。この消費はいうなれば他の何かのための消費なのである。人間が生きていくための消費と言ってしまうと大雑把過ぎるけれども、この言い方は生産的消費の一側面を捉えているだろう。人間が、ある社会において、生きていくためには何が必要であるか。このような問いへの回答がバタイユの言うところの「生産」であり、その生産のために、生産するために人間は消費するのである。ではいま一方の快楽を志向する「非生産的消費」についてはどうか。「奢侈、葬儀、戦争、祭典、豪奢な記念碑、遊戯、見せ物、芸術、倒錯的性行為(すなわち生殖目的からそれた)などはいずれもみな、少なくとも原始的条件のもとでは、それ自らのうちに目的をもつ行為を代表している」(12)。ここでのポイントは言うまでもなく、その消費それ自体が目的であるということである。何かのために消費するのでは決してないのだ。それは快楽のための快楽であり、消費のための消費なのである。そして更に重要なのはこの消費が「損失」と表現されていることだ。消費が「真に意味を持つためには損失はできるだけ大きくなければならないのである」(13)。バタイユは、このそれ自体では無意味で無駄な消費が、その程度において、大きければ大きいほどいいと考えている。それはその上「損失」というニュアンスをさえ持つものなのである。積極的に消費が損失を受け持つという事態は一般常識的な「消費」概念からすればいかにも奇怪であろう。一体どうして彼はこのポイントを強調するのであろうか。このような問いは上述したバタイユの消費の概念に向き合うことになれば、自然に発せられことになるのではないだろうか。その問いへの一ヒントとして彼の記述を引用してみよう。「詞の語法は、損失状態の表明の、最も堕落していない、最も理屈化していない形態に適用されるもので、消費の同義語と見なしてよい。まさしく、最も的確なかたちで、損失を通じての創造という事実を具現するものである」(14)。この文章は彼が非生産的消費の日常的な例として、宝石や祭式における生贄、賭博と並べて、芸術制作を挙げている箇所に記されている。つまり芸術としての詞は無論非生産的消費であるのだけれども、これは他に同列に挙げられている例と同じく、象徴的な消費機能という側面を持ち、なおかつより純粋なそれなのである。ここで、詞は損失という意味を持つ消費において何ものかを創造するのだと、彼は言っている。この何ものかとは何であるか。これが何か他の何ものかであるならば、詞という消費は他のもののための消費として、非生産的消費であることをやめなければならない。ゆえに、この何ものかは、何ものかという詞の外にある対象であるのではなく、詞それ自体なのである、言うなれば詞それ自体がその対象であると考えねばならないだろう。詞が己を創造するというわけである。また別の角度からもう一つ。「祭式は生贄になる人間や動物の血腥い浪費を必要とする。生贄は、語源的意味では、聖なるものを生み出すことに他ならない」(15)。「そもそも、聖なるものは損失の働きによって形造られるように見受けられる。なかんずく、キリスト教が成功したのは、人間の苦悩をはかり知れぬ損失と失墜の表現にまで高める神の子の不名誉な磔刑はりつけというテーマが功を奏した結果と見てよいであろう」(16)。この部分で語られているのは、生贄という消費についてである。この消費は「聖なるもの」を生み出すとバタイユはいうのである。彼の「聖なるもの」の捉え方の全体については、現時点で筆者の理解力のとても及ぶところではないから扱いきれず持て余してしまうのであるのだけれども、それでもここでひとまず言えることは、「聖性」をこの消費は生み出すけれども、それはそのための消費であるのでは決してないのであるということだ。これは先にも触れたようにこの消費の性質からの論理的帰結である。つまりこの消費は結果として「聖なるもの」を生み出すのである。
以上でひとまず二つ非生産的消費の特質を示していると思しき部分を引いてみた。ここから、どうしてこの非生産的な消費は、その非生産の度を強くすればするほど、その消費の本来性に適うのかという問いに解答を与えるならば、より純粋な消費にバタイユはやはり何らかの意味を見出していた、ということがいえるだろう。それは、過大な損失、無駄が消費の純粋性を保証する、といったことであるのだと私は考える。つまり、繰り返すことになるけれども、この消費の本来性は、消費それ自体が目的であるところにあり、そして一般常識的な経済合理性には反するような「損失」「無駄」「非生産」がその特質である。なおかつそのような「経済非合理性」の度が増せば増すほど、その消費の本来性に適う。そこでは消費の純粋性が保証され、「意味」が生まれる。しかしその消費はやはりそれ自体が目的であるので、かような「意味」は結果的な産物と考えねばならない。
 
生産・獲得そして交換の起源
 
バタイユは「消費」の概念を「非生産的消費」にのみ限定する。本当の意味での消費は「非生産的消費」だけであるとするのである。消費は「生産的消費」を含まない。彼はその上で「有用性」と関連する「生産」や「獲得」という概念を「消費」と対照して考える。そこで彼はこういう。「生産と獲得がかたちを変えつつ発展してきたことは、またそれらが持ち込む変数を見きわめることが歴史的過程の理解にとって欠かせないことは事実であるとしても、それらはけっきょく消費に従属する手段にすぎない」(17)。「いかばかり猛威を振るおうと、人間の貧困が社会全体を牛耳り、その結果、保存への配慮が、生産に目的の様相を授け、非生産的消費への配慮よりも上位に立ったという前例はいまだかつてない」(18)。衝撃的にも、「獲得」や「生産」が歴史的に「消費」の手段でしかありえなかったと彼は言うのである。どうして彼はここまで「消費」に重きを置くことができるのか。彼は「獲得」「生産」が「消費」に副次的であることの意味を、それらの起源にあたって示してみせる。「消費に比べての生産と獲得の副次的性格は、原始的経済制度において最もはっきりしたかたちで現れる、というのはその頃はまだ受け渡しする物品を贅沢に手放すかたちで交換が行なわれていたからだ」(19)。「このようにそれは、根底においては浪費過程として現われ、その上に立って獲得過程が発展したのである」(20)。つまり原初の交換においては、何かを獲得するために何かが消費されたのではないということが言われているのである。この場合の「消費」は勿論それ自体で激しいまでの「非生産的消費」なのであり、「消費」のための「消費」があった。「獲得」は「消費」に対して事後的に発生するものなのである。この逆転の意味の大きさはとても筆者の筆舌にかなうものではない。例えば「古典経済学では原始的交換は物々交換のかたちで発生したと考える。けだし交換による獲得手段がその起源においては、今日それが満たしているような獲得への要求ではなく、逆に破壊と損失への要求から発したものであるなどとは、まったく見当もつかなかったからである」(21)とあるけれども、この古典経済学の考えと同様に現代の我々が一般常識的に考えても、このようなバタイユの逆転的な発想は奇異であるとしかみなされないのではないだろうか。勿論バタイユは何の根拠もないままにこのような主張を行なっているわけではない。その根拠は、バタイユがマルセル・モースから引き継いだ「贈与」の慣行、ポトラッチではっきりと示されているのである。
 
第3章
 
「贈与」としてのポトラッチ
 
ポトラッチとは何か。「北西部沿岸のトリンギト族、ハイダ族、チムシアン族、クワキウーツル族のポトラッチは、十九世紀末からすでに詳しく研究されてきた(しかし当時は他の諸国の原初的交換形態との比較はなされなかった)。これらのアメリカ土着民族のうち最も未開化のものは成員の境遇の変化に際して―成人式、婚礼、葬儀など―ポトラッチを行なうが、より進化した形態のもとでも、それは常に祭礼と不可分であり、祭礼のきっかけをなしたり、その機会におこなわれたりする」(1)。アメリカなどに住まう未開の土着民族による一慣行がポトラッチである。それは、その民族の族内における成員の通過儀礼や冠婚葬祭、広く祭礼一般に際して行なわれる。その内容はどのようなものか。「出し惜しみを一切しりぞけ、一般に、競争相手を辱しめ、挑撥し、負い目を負わせる目的で派手に富を進呈する豪勢な贈物のかたちをとる」(2)。また「贈物がポトラッチの唯一の形態ではない。競争相手に挑戦するには、これ見よがしに富を破壊するという手も考えられる」(3)。つまり、族外族内を問わず、ある共同体が競争相手となる別の共同体に対して、その共同体の所有する財産、貨幣、「富」を実際に贈物として与えてしまう。もしくは、それらを競争相手の目の前で破壊してしまうのである。その破壊は以下のような我々の常識的な理解をはるかに超えてしまっているものである。「比較的近年のことだが、トリンギト族の首長が競争相手のところに出向いてその面前で自分の奴隷数名の喉をえぐって見せたことがある。この損害は定められた期限内により多数の奴隷の殺戮によってお返しされた。シベリア北東部辺境のチェクチ族は、ポトラッチに類した制度を知っており、他の部族を圧倒し辱しめる目的で、莫大な価格に相当する橇犬を殺害する。アメリカ北西部では、破壊が村落を焼き払ったり、船団を打ち毀したりするまでに至ることがある。貨幣の一種で時には虚構的価値が付与されて莫大な財産を構成する紋章つき銅塊が、砕かれたり、海に棄てられたりする。私有財産の大量犠牲と、目を見はらせ、やり込める意図をもって積み上げる贈物と、お祭りにつきものの熱狂とが見境なく結びつく」(4)。ただ競争相手に負い目を負わせるためにこのような凄惨な破壊の饗宴は繰り広げられるのである。
 
ポトラッチの意味
 
バタイユがこのポトラッチという慣行に見出した重大な意味を二つに分けてみよう。まず一つ目は、交換の端緒としてのポトラッチという意味合いである。「贈与の交換価値が生じるのは、受贈者が、その恥辱をそそぎ、挑戦を受けとめるために、後日さらに莫大な贈物で応じることによって、すなわち過分に返報することによって、受贈の際に負わされた負い目を返さねばならないところからである」(5)。言うまでもなく、ポトラッチは、贈与としてのそれは決して、それ自体で交換であるというわけではないのである。負わされた負い目を返すことが交換としての意味を持ってしまうだけなのである。更に交換としての意味ではこうだ。「こうした遣り取りにおいては、返しのポトラッチの際に義務的割り増しのかたちで、きまって高利が介入することから、交換の起源についての歴史では、利息つき貸借が物々交換に取って代ったものと見られてきた。なるほど、ポトラッチを有する文明においては、金融経済文明でいえばクレジット・インフレーションに近いかたちで富が増殖される事実を認めなければならない。すなわち受贈者集団が負債を負うという事実から直ちに、贈与者集団が現実に財産を所有していると見なすわけにいかない」(6)。ポトラッチの受贈者はただ受けた分だけをそのまま返すのではない。負わされた負い目を返すためには、自分に負わされた以上の負い目を相手に返さなければならないのである。それでないと相手に負い目を負わせることは出来ないからだ。するとこの交換的なポトラッチの闘いは、倍々ゲームさながらにその対象である富を増やしていくことになる。これは利息という概念の成立起源であり、また、これは留保つきではあるけれども、高度資本主義経済における資本の増殖の先駆けということもできるであろう。ともあれ交換の端緒としてのポトラッチには様々な様相を見て取ることが出来るわけだ。けれども、翻ってポトラッチはやはり純然と贈与なのであって、それはいわゆる交換一般とは弁別されるべきなのである。されどポトラッチは交換の端緒なのである。ポトラッチは交換を潜勢的に含んでいるのだ。というのは、確かに時間軸に沿ってみれば、ポトラッチという贈与は、結局遅延された交換であると考えることが出来るからである。実際バタイユはモースを引いて完全な贈与として、つまり純粋贈与として、一方的に贈与することをポトラッチの理想とした。そこでは交換はない。交換が排除され成立しないのである。それでは、逆に言うと、そのような理想的な贈与の形態を持ち出さなければ、ポトラッチの意義は危うくなってしまうのであろうか。そうではない。それは、バタイユがポトラッチという贈与慣行において一番強調するポイントにより、根本的に保証されるのである。それが、筆者がバタイユによるポトラッチ−贈与概念において挙げるところの二つ目の重大な意味である。バタイユは言う。「この制度の重大な意味は、損失によって―そこから身分、名誉、階級制内での地位がもたらされ―実質的所有が成り立つ点である。贈物は損失と、つまり部分的破壊と考えねばならない」(7)。これは極めて逆説的な事態である。富の贈与が、破壊が、放擲が、その行為者を本当の意味で富ませるのである。これらの共同体においては、どれほど富を贈与できるかが、その共同体におけるある人間の位階を決定する。そして、「結果としては獲得の範疇に入るとしても、これは―少なくともその遣り取りをうながす衝動が素朴なかたちでとどまる限りは―いわば逆方向を目指す過程の望まざる成果にすぎない」(8)。贈与した人間が結果的に獲得として富んでしまうのは逆説的な事実だ。彼は富むために贈与したのではない。贈与のための贈与、破壊のための破壊、放擲のための放擲なのである。それ自体のためのそれがあっただけなのだ。ポトラッチは本来的にはそれ自体のためだけに行なわれるのである。これが、筆者が挙げる二つ目の重大な意味であり、バタイユがポトラッチという贈与によって最も強調したかったであろうことである。
 
再び、概念としての「経済的合理性」の発生について
 
さて、私が示したかったのは、生産や獲得、交換などの、経済的合理性に則った諸概念が如何様にして発生したのかであった。それは先で見てきたようにバタイユの贈与慣行としてのポトラッチに生々しく描写されている。そこでは富が、富むということがこのようなあり方をしている。「ポトラッチの収穫は新規のポトラッチの中にいわば前もって繰り込まれているために、後の段階でのさばりだす吝嗇りんしょくから生じるような混ぜ物は一切ぬきに富の古式原理がさらけ出される。富裕者が力を獲得する以上、富は獲得物のごとく見えるが、しかしその力が損失を与える力として特徴づけられるという意味では、富は完全に損失の方向にむけられている。損失を通じてのみ富に地位と名誉が結びつくのだ」(9)。「賭である以上、ポトラッチは保存原理の反対物である。それは所有相続製のトーテム経済の内部に存在していたようなかたちの財産固定化に終止符を打つものだ。相続制のかわりに、行き過ぎた交換活動が、所有の源泉として、気違いじみたかたちの一種の儀式的ポーカーをもたらしたのである。ただしその賭け手はけっして勝ち逃げするわけにはゆかない。とどまって挑戦に応えつづけるのだ。財産は従っていかなる場合にもその所有者を困窮から護る役割を果たさない。それは役割として逆に、社会集団内に風土的状態で存在している度はずれな損失の必要に、所有者ともども、さらされつづけるのだ」(10)。交換はポトラッチの本質ではない。それはポトラッチの形式的な部分に過ぎないのである。この形式的な交換行為によって、獲得されるものは確かにある。だがそれはそこに留まるような、蓄えられるような保存の対象ではなく、もうすでに次の交換のために用意されているに等しいのである。しかしこの言い回しは現行の経済的合理性の範疇にある概念を前提にしてしまっているように思える。我々はどうしてもそのような概念的思考をとってしまわざるを得ないのである。しかし、ポトラッチにおいてはこれらの概念は全く有効でないのである。獲得され蓄えられるものが富なのではないのだ。富は端的に贈与することの内にあるのである。であるので、富はついぞ固定化されることはなかった。それは常に交換に晒されていたのである。贈与者である富裕者は常に繰り返し贈与をし続ける者なのである。さて、なかなか十全に捉えきれない含蓄を持つとしても、かの富が以上のような本質を持つものであったとするならば、我々の現行の経済的合理性に則る諸概念は一体何処から発生したのであろうか。例えばポトラッチと交換についてバタイユはこう言っている。「厳密な意味でのポトラッチという用語は、挑戦を通して行なわれ、返報を誘い出す闘争型消費にたいしてだけ適用されるべきである。より具体的には、原初社会にとっての交換と区別しにくい形態である」(11)。これはもっともなことで、ポトラッチは、その現象において、広い意味での交換と区別できないだろう。しかしこれは前述した通りで、交換はただポトラッチの形式的な側面であるというだけなのである。続けてバタイユは、我々の現行の経済的合理性に則った「交換」の発生についてこう言う。「交換はその源を正せば一つの人間的目標に直結的に従属していたことを認識すべきである。しかしやがてこの従属が直結的でなくなった段階から生産様式の進歩と結びついた交換様式が始まりだしたことも明らかである。生産機能の原理からしても、たとえ一時的にせよ、生産物を損失から隔離せねばならないからだ」(12)。そして「商業経済では、交換のプロセスは獲得の方向をとる。財産はもはや賭博台の上に載せられず、比較的安定したものになる。安定が確保され、莫大な損失によってももはや危殆きたいに瀕する恐れがない場合においてのみ、財産は非生産的消費の方式に従う」(13)。始原の交換に従属的に直結していた人間的目標とは、ポトラッチのような贈与の中に存する、損失でしか、破壊でしか得られない本質的な何物かである。それは確かに富というかたちで現れるけれども、富は元来損失の方向を向いているので、それはやはり現象的なものに過ぎない。この人間的目標については後ほど改めて触れることにする。ともあれ、このような本質的部分が交換の主たる目的でなくなる時、交換はいわば形骸化してしまうことになるのだ。しかしこれが近代商業経済の土台である交換の実相なのである。そしてここにおいて初めて、生産や獲得などの経済的合理性の範疇にある諸概念が発生するのだ。全ての交換がそれらの概念に関連付けられてしまうことになる。しかしだからといっても、前述の人間的目標を目指す消費、ポトラッチ的な消費はこの世から消失してしまうわけではない。それは確かに純粋な形では存続しない。むしろその純度を下げていくことになるだろう。しかしそれは厳然と残り続けるのである。
 
第4章
 
 以上では合理的経済の発生の端緒を二つの消費形態から見てきた。ここからはそのような合理的経済がどれほど限定的であるのか、そしてバタイユの普遍経済論の骨子を巡りつつ、人間的目標を目指す消費、バタイユの「蕩尽」に、その可能性もふまえつつ迫る。
 
限定的経済論から普遍経済論へ
 
 我々は合理的経済のもと、獲得したり、生産したり、交換を行なったりする。「かりに車輪を取り換えたり、膿瘍を切開したり、葡萄畑を耕したりするのであれば、ごく限られた作業を仕遂げることも容易である。行為の対象となる諸要素は世界の残余の部分から完全に切り離されているわけではないが、あたかもそうであるかのごとくそれらに働きかけることも可能である。車輪や膿瘍や葡萄畑は他と関連する一部であるとはいえ、作業は全体を片時も考慮する必要なく完遂されうるからである。実現された変化は残余の事物を目立つほど変えはしないし、外部のたえざる影響が作業の運びにこれといった効果を及ぼすこともない」(1)。「だが、かりにアメリカ合衆国における自動車の生産といったような、重大な経済活動を考察する場合には事情は異なる。経済活動全般を問題にするとなれば、ますますもってそうである」(2)。「自動車の生産と経済の全般的動きとのあいだでは、相互依存は充分に明らかである。ところが全体として把握された経済は、あたかも分離可能な作業方式でもあるかのごとくに考察されるのが常である。生産と支出は繋がっている、だが、一括して考察する際には、他から比較的独立した基本的作業でも取り扱うようにそれらを研究することも困難ではないように思われている」(3)。我々の経済活動を相対的に個別化して捉えることは確かに道理にかなってはいる。しかし、それは本質的にはやはり別個に捉えうるものではない。「生産活動の全体は、それが周りから蒙る、或いはそれが周囲に及ぼす諸変化の中で考察されるべきではないのか?言い換えれば、人間の生産と支出の方式を、より広大な全体の内部で研究する必要はないのか?」(4)。経済活動を個別的に捉えられないのならば、どうすればいいのか。その方策は、経済活動を、それを取り囲む環境全体から規定し捉えるというものである。「産業の発展や、社会紛争や、世界戦争を全部ひっくるめてみた場合には、一言でいえば全人類の事業をひっくるめてみた場合には、経済の普遍的データを研究せぬ限り明らかにしえない原因と結果が存在するとはいえないだろうか?その普遍的影響を把握せずに、すこぶる危険な(しかもどうしても放棄するわけにはいかない)事業をわれわれは掌握できるわけがあろうか?経済力を絶えまなく発展させる以上は、地球上のエネルギー流動と結びついた普遍的問題を、われわれは提出すべきではなかろうか?」(5)。この場合の「地球上のエネルギー流動」とは、太陽から地球に一方的に与えられるエネルギーのことである。人間の営為は勿論地球上で行なわれるわけであるから、この太陽からのエネルギー、地球で流動するこのエネルギーを無視して、これら人間の営為だけを観察することは当を得たことでないのだ。これは個々の経済活動をそれだけで個別的に捉えることのできないことの根拠である。「一見しただけで、経済活動のうちに―富の生産および使用のうちに―宇宙的現象の一つと考えられる、地球活動の一側面を認めることは容易である。宇宙のこの一点におけるエネルギーの流動の成果として地表上に一つの運動が生じる。人間の経済活動とはこの運動をわがものにし、それがもたらす可能性を一定目的に使用することである」(6)。人間の経済活動はより普遍的な観点から捉えられなければならないのだ。言うならば、宇宙エネルギーの流動の一現われが人間の経済活動なのである。限定的な経済論はそれが限定的であるからこその限界を持つ。だからその限界を打ち崩すような普遍的な経済論が要請されているわけなのだ。普遍経済論は宇宙エネルギーをもその射程に収めるものなのである。
 
一般エネルギー理論としての普遍経済論
 
「自然科学の観点からさらに考察すると、無数の星をひきつれた複数の銀河が見えてくる。これは「全体の運動」で一つに結ばれた星々の体系だ。太陽系は、核となる星の回転に、複数の渦をつけ加えたものである。これらの惑星もみずから回転し、その多くは、周囲に環や衛星を伴っている。太陽系のそれぞれの天体は、こうした運動で太陽系と結ばれるだけでなく、「内的な運動」、すなわちその天体を形成する塊に固有な活動によって動いている」(7)。「太陽系の核となる星、太陽は輝いている。輝く太陽の放射は、太陽がその物質の一部を、熱や光の形で、空間にたえず投射するものである。このようにして浪費されるエネルギーは、太陽を構成する物質が、太陽の内部で破壊されて生み出されたのである。どの恒星も太陽と同じように、法外な自己喪失に耽ふけっているのである」(8)。巨視的に見れば、その太陽系という小一団を生み出した流れがあったわけだ。その流れは、また別の星辰の爆発から奔出したものであり、大きな銀河の拡大からの流れでもあり、どんどん遡ればついには宇宙の起源に到達することになるだろう。最新の宇宙科学においても、やはりビッグバン理論はある一定の趨勢を保っており、その理論的なイメージからいえばそれは、バタイユの普遍経済論的な宇宙エネルギー論と何らそぐわないものではない。つまり、エネルギーが遠すぎる過去のある一点で爆発的に発生したわけである。そして、その未知の巨大なエネルギーを持った大爆発がこの宇宙を、引いては我々の太陽系を造り出したのである。その途方もないエネルギーの現われがこの宇宙であり、我々の太陽系であり、地球における我々の営為なのである。だから、宇宙エネルギーがミクロである我々の活動、それは限定的な意味での経済活動でも何でもいいけれども、それらの底流をなしているということは、何ら神秘思想的でもニューエイジ的でもオカルトなどでもない、端的に理論的な帰結、事実なのである。さて、宇宙エネルギーの流動においては、「過剰」という契機がとても大きな意味を持つ。以上を含めつつ、我々の太陽系に話を戻してみよう。
 
過剰
 
「生命の最も普遍的な条件について簡単に触れておきたい。決定的重要性をもつ一事実に注意を惹くだけにとどめよう。つまり太陽エネルギーがその過剰発展の根源であるということだ。われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを―富を―配分する」(9)。太陽が地球にエネルギーを一方的に与える。そのエネルギーがなかったならば、およそ生命は発生することがなかっただろう。しかし翻って、生命が発生するとは一体如何なることであろうか。「太陽光線は結果として地球の表面にエネルギーの過多を生じる。しかしまず最初、生命体はこのエネルギーを受け取り、自ら利用できる空間によって許される範囲内でそれを蓄積する。ついで生物はそれを放射もしくは浪費する、だが、その著しい部分を放射に委ねる前に最大限成長に役立てる。ただ生成を持続することの不可能性のみが、浪費に歩を譲るのである。従って真の過剰はいったん個体あるいは集団の成長が制限されてようやく始まるにすぎない」(10)。また「生命体は、地表のエネルギーの働きが決める状況の中で、原則としてその生命の維持に要する以上のエネルギーを受け取る。過剰エネルギー(富)は一つの組織(例えば一個の有機体)の成長に利用される。もしもその組織がそれ以上成長しえないか、或いは剰余が成長のうちに悉ことごとく摂取されえないなら、当然それを利潤ぬきで損耗せねばならない。好むと好まざるとにかかわらず、華々しいかたちで、さもなくば破滅的な方法でそれを消費せねばならない」(11)。生命体は太陽からのエネルギー流動を受け取る。しかし、そのエネルギーは生命体にとって普通に消費するにはあまりに莫大なのである。「原則として生物は生命を確保する作業(諸機能の活動、および動物にあっては、欠くべからざる筋肉の行使、食物の追求)にとって必要な以上に多くのエネルギー資源を行使する、このことは成長や繁殖といった機能からみても明らかである。植物や動物が常に剰余を行使するのでなければ、成長も繁殖も可能でないだろう。エネルギー消費を必要とした、生命の化学作業が、剰余の恩恵に浴し、またそれを創造するのは、生命体の原理に基づくのである」(12)。つまり、エネルギーは常に必要以上に与えられるのだ。エネルギーを受ける側は常に剰余を持つことになる。であるので、その剰余エネルギーを如何にして消費するかが問題になってくるのだ。生命体ならば、それ自体の生命の存続のための活動に剰余エネルギーを使うことになる。実にエネルギーを使うため、それ自体に、別のエネルギーを摂取することもあるだろう。つまり、別の生命を捕食したりすることがそれなのである。これは、エネルギーの消費ということ自体が、より大きな剰余エネルギーの消費に向かうことを示している。勿論剰余エネルギーはその生命体自体の可能な限りの成長のためにも使われることになる。それは生命の維持にかなうことになるからだ。しかし、成長にはいずれ限界が訪れる。制限のない成長はない。成長の限界が訪れるとどうなるか。剰余エネルギーはまだまだ存しているのだ。ここにおいて初めて「過剰」の契機が現れる。エネルギーは十二分に余っているのに、使用されえない状態なのである。するとどうなるか。過剰という状態が現れれば、剰余エネルギーは全く意味のない消費の対象にならざるをえないのだ。「総じて成長があるのではなく、ただ単にありとあらゆるかたちでの贅沢なエネルギー浪費があるにすぎないという事実を、強調しておこう。地球上での生命の歴史はもっぱら狂おしい充溢の結果である。すなわちその主要な事件は奢侈の発達、次第に経費のかさむ生命形態の産出にほかならない」(13)。極端に言ってしまうと、生命の成長はたいした問題ではないのだ。それは、剰余エネルギーが浪費されるというプロセスの一契機にすぎないのである。ここで一つのイメージを提示しよう。太陽は巨大な瀑布である。そこからは途方もない量の水が流れ落ちてくる。対して、その瀑布の下部には大きな容器がその膨大な水を受けている。これが地球である。その大きな容器の中には様々な大きさの容器が置かれている。これが地球という制限された空間内における生命体である。それらは集団をなすこともある。ともあれ、水は際限なく落下し続け地球を、生命体を満たす。しかしその瀑布はそれらを満たすにとどまらない。ずっと水を溢れ返させ続けるのである。この水がエネルギーというわけだ。何となれば、生命体は過剰なエネルギーを効率よく消費するための方便にすぎないのである。
 
人間という過剰
 
人間も一生命体であるのだから、上記したように、ただの剰余エネルギーの方便にすぎないという見方も通用しよう。しかし、それはここではひとまずおこう。バタイユはこのような一節を残している。「時間の中での性行為の在り方は、空間の中での虎の在り方に等しい」(14)。これは勿論単なる詩的比喩の一節などではない。人間という過剰の自然的側面を端的に表す一節なのである。さて、ここでの「虎」とはなんであろうか。それは「掠奪者としての絶えざる蹂躙」(15)で「エネルギーの莫大な浪費」(16)を表しているのである。つまり虎という猛獣は己のために他の生物を食らい尽くすのである。これは虎という猛獣の一点において、他の生命というエネルギーが凝縮的に浪費されるという事態である。「生命の遍あまねき沸騰の中で、虎こそは至高の白熱点である」(17)。人間は勿論虎のような浪費の仕方をするわけではない。しかし贅沢な浪費の頂点に君臨することは間違いないであろう。生命に、つまり剰余エネルギーに満ちる空間は、ある一点において贅沢な浪費を極めつくされるのだ。その一点が、猛獣の虎であり人間なのである。対して「時間の中での性行為の在り方」とは何か。これは有性生殖を示している。「まっ先に目につくのは分裂生殖が予告したもの、すなわち分化であり、それを通じて個別存在は自らのための成長を打ち切り、個体を増やすことによって成長を生命の普遍性へ移し変える」(18)。生命体の成長に限界があることは先に見たとおりだが、その限界に際して、生命体は次の生命を増やすことになる。それが生殖である。つまり、己の成長に使用したエネルギー以上の剰余エネルギーが次の新しい個体の誕生を促すのである。新しい個体は勿論それ自身の成長を始めることになる。つまり、新しいエネルギー浪費のポイントを作り出すということなのだ。「それは動物にとって、一瞬のうちに可能の極限にまで高められる、エネルギー資源の唐突で熱狂的な浪費の機会である(虎が空間において占める位置を、瞬間の中で占めるのだ)」(19)。これが先ほど引用したバタイユの詞的比喩的な一節の意味である。虎の在り方と性行為の在り方は、方向が逆である。片や己の周りの空間を占拠する生命を食らいつくす、片や新しい個体を産出する。しかし、それぞれがエネルギー浪費の高度な形態であるということで、共通するのである。もう一つここに付け加えられるのが、「死」である。「宿命的な仮借ないかたちで訪れる、死こそ、ありとあらゆる奢侈のなかで、まさしく最も高くつくものだ」(20)。死を我々は一般的に恐れる。しかし、死なない生物はないのだ。浪費というエネルギー流動において死が最高度を発揮するのは、生命体の宿命がその根拠にあるといえる。死でさえもエネルギー浪費なのである。それは、新しい個体にエネルギー浪費を託すという意味で、生殖に似ている。以上これら三種が、人間がすでに過剰であり、贅沢な奢侈的エネルギー浪費の現われであることの自然的側面である。しかし、人間の奢侈はこれだけにとどまらないのだ。人間は古来文明を築き、社会を成立させてきた。それは人間の営為の積み重ねである。そして勿論この営為も奢侈的エネルギー浪費の現われなのである。狂騒的なエネルギー浪費に駆り立てられてきた人間、というわけだ。しかし、人間の浪費は剰余エネルギーのあまりの巨大さに追いつかない事態に陥ることもあった。しかしエネルギーの奔出はとまらないのだ。それが極限で爆発したものが、過去の二度に渡る世界大戦である。皮肉にも戦争が追いつかないエネルギー浪費を助けることになったのだ。「富の増加がかつてない最大のものとなる瞬間、それはわれわれの目にそれが常になんらかのかたちで有した呪われた部分の意味をはっきり帯びるに至ったのだ」(21)。我々はいわば板ばさみの状態に陥っている。奢侈の正当性を我々は認められない。そしてそれゆえに起こりうる戦争のようなエネルギーの爆発的横溢をもまた当然のように忌避するのである。浪費が、奢侈が呪われてしまうのである。
 
終章
 
バタイユの普遍経済論は決定論の様相を帯びる。つまりエネルギーの流動によって全てが決定されているに過ぎないと、考えられうるからだ。人間の在り方、人間がどのように活動しようとも、全てはエネルギーの奔流のなすがままなのではないか。人間の理性や合理性なども、この巨大なエネルギーの前では風前の灯であるのではないか。なぜならそれらでさえも、このエネルギーの流れから生じたに過ぎないと説明できるからだ。確かにある一面で、この決定論的な様相は人間の存在論をもその意味でのみ規定するようで、ニヒリスティックな印象を与えるとしても否めない。そこでは全てが決定されている。人間が巨大な宇宙エネルギーの流動に抗うことなどはできない相談だ。しかし、そうではない。ニヒリズムに陥ることは精神の怠惰である。バタイユの普遍経済論の射程は人間の倫理にも広がっている。
 
「蕩尽」の可能性
 
バタイユの普遍経済論においてモチーフとなっているのは、蕩尽である。しかし、彼はただ蕩尽しつくすということだけに重きを置いたのではない。消費には2種類があったことを見てきた。「生産的消費」と「非生産的消費」である。彼はポトラッチを持ち出し「非生産的消費」の意味を暴かんとした。それは「人間的目標」を目指していたのであった。そしてそれが本質的であったのである。また宇宙エネルギーの流動について、太陽が地球にエネルギーをもたらすのは、返報なき一方的なかたちをとっていたことを記している。太陽は贈与していたのである。何のためでもない、ただ与えるためだけに与えているのである。人間の浪費についてはどうだろうか。我々は確かに、経済的合理性をその旨とする高度資本主義社会にその身をおいている。いや、合理性はそこでは至上の価値を誇っていると言ったほうがいい。我々はそれに対し何らかの不安感を持っている。そこには人間的なものが決定的にかけているように思われるのだ。そこでバタイユの蕩尽はどのような意味を持ちうるだろうか。「人間生活は、法的存在とは別個に、天空に孤立する球体上で、日夜、諸国において、実際に営まれるかたちを見ればわかるように、人間生活は、合理的概念の中でそれに付与される閉鎖的体系にいかなる場合にも局限しうるものではない。それを構成する放棄と、排出と、波乱の巨大な作業は、そうした体系が欠如してこそはじめて人生であるということによって明らかにしうるだろう。少なくともそれが許容する秩序や保存は、秩序づけられ保存された緒力が、説明可能な何ものにも従属しえない目的のために放出され消滅する瞬間からしか意味をもたない。よしんば悲惨なものであるにせよ、かかる不従属を通じてのみ、人類は物象の無条件な光輝の中に閉じ込められずにすむのである」(1)。我々は生産的消費から逃れることはできないだろう。それが我々の生活なのである。極端な話、今すぐにバタイユの言うような非生産的消費の道を進みうる可能性はあるだろうか。それは不可能というものである。しかしバタイユの蕩尽の可能性はそこにある。我々はやはり生産的消費にのみかかずらうことはできないのだ。そこに中道はあるのだろうか。バタイユの普遍経済論の存在論的側面から倫理的側面への移行が急務なのである。存在論としての蕩尽から、倫理としての蕩尽へ進む可能性を見出すことが、ひとつ、現代社会における我々の生きる道を照明してくれるのではなかろうか。
 
 
テクスト
 
序章
 
(1)見田宗介現代社会の理論」岩波書店、1996年
(2)ジョルジュ・バタイユ「消費の概念」生田耕作訳、二見書房、1973年
(3)ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」生田耕作訳、二見書房、1973年
 
第2章
 
(1)ジョルジュ・バタイユ「消費の概念」生田耕作訳、二見書房、1973年、p.263。
(2)同上。
(3)同上、p.264。
(4)同上。
(5)同上。
(6)同上、p.265。
(7)同上、p.266。
(8)同上、p.265。
(9)同上。
(10)同上、p.267。
(11)同上。
(12)同上、P.267-268。
(13)同上、p.268。
(14)同上、p.271。
(15)同上、p.269。
(16)同上。
(17)同上、p.272。
(18)同上。
(19)同上。
(20)同上、p.272-273。
(21)同上、p.273。
 
第3章
 
(1)ジョルジュ・バタイユ「消費の概念」生田耕作訳、二見書房、1973年、p.273。
(2)同上、p.273-274。
(3)同上、p.274。
(4)同上、p.274。
(5)同上、p.274。
(6)同上、p.275。
(7)同上。
(8)同上、p.275-276。
(9)同上、p.276。
(10)同上。
(11)同上、p.277。
(12)同上。
(13)同上。
 
第4章
 
(1)ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」生田耕作訳、二見書房、1973年、p.21。
(2)同上。
(3)同上、p.22。
(4)同上。
(5)同上、p.22-23。
(6)同上、p.23。
(7)ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分 有用性の限界」中山元訳、筑摩書房、2003年、p.35。
(8)同上、p.35-36。
(9)ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」生田耕作訳、二見書房、1973年、p.35。
(10)同上、p.36。
(11)同上、p.24-25。
(12)同上、p.33。
(13)同上、p.42。
(14)同上、p.15。
(15)同上、p.43。
(16)同上。
(17)同上。
(18)同上、p.45。
(19)同上。
(20)同上、p.44。
(21)同上、p.50。
 
終章
 
(1)ジョルジュ・バタイユ「消費の概念」生田耕作訳、二見書房、1973年、p.289。
 
 
参考文献
 
湯浅博雄現代思想冒険者たち 第11巻 バタイユ−消尽」講談社、1997年
今村仁司「暴力のオントロギー勁草書房、1982年
見田宗介現代社会の理論」岩波書店、1996年
今村仁司「交易する人間(ホモ・コムニカンス)」講談社、2000年
今村仁司「排除の構造」筑摩書房、1992年
中沢新一「愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュⅢ」講談社、2003年
栗本慎一郎「幻想としての経済」青土社、1980年
澁澤龍彦「快楽主義の哲学」文藝春秋、1996年
ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分 有用性の限界」中山元訳、筑摩書房、2003年