レポートの予定
 
大きなポイントを「啓蒙としての理性」に絞って
論を運ぼうと思う。
 
啓蒙の弁証法」のモチーフは平たく述べるとこうだ。
 
啓蒙としての理性は歴史的に推進されてきた。
自然を支配することが文明の前提であり、
その支配を推し進めることが、啓蒙というプロジェクトとして
遂行されてきたのである。
これは一般に人間の野蛮からの解放であるというわけなのだ。
 
人間は啓蒙としての理性により野蛮から解放され、文明人となる。
なのに、現在の我々の状況は当の野蛮に落ち込んでいるのである。
啓蒙を推し進めた結果としての野蛮。
その先鋭がファシズムユダヤ排除であり、欺瞞に満ちた大衆文化である。
このショッキングな野蛮的現状の出来は一体いかなる原因によるものなのだろうか。
 
それは啓蒙的理性の即自的な特質に認められる、とアドルノ/ホルクハイマー
は指摘する。原初的な神話にすら啓蒙的理性があること、同じように
啓蒙的理性にも神話的な要素が見出されること。両者は共に分かち難い契機によって
結ばれている。
 

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ここで当然問題になってくるのは、理論的、実践的両契機において
どうあればいいのか、どうすればいいのかということだ。
啓蒙的理性それ自体に問題があるのなら、我々はどのように進んでいけばいいのか。
アドルノ/ホルクハイマーは明確な救済の道筋を提示しない。
ではただペシミスティックな認識だけで終わるのかというとそうではない。
 
一般的(揶揄的?)には、この認識からアドルノは「美」へ、ホルクハイマーは「宗教」へ
進んだと考えられている。(それらを理性の他者と言えるだろうか)
 
ハーバーマスが突いたのも大まかに言えばそのポイントであると考えられる。
 
だが本当にそうなのだろうか。
アドルノ/ホルクハイマー両者のこの問題に対する哲学的解答の本質は
どこにあるのか。
 

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