バタイユは単純に「蕩尽」を称揚するのではない。
普遍経済論第一部「呪われた部分」でのそれは
あくまで普遍経済的な「蕩尽」である。
ただ人間においてそれは発現するだけなのである。
あたかも太陽が無尽蔵に爆発し続け、エネルギーを撒き散らすが如く。
 
端的に余剰は蕩尽されるのだ。
 

                                        • -

バタイユにとって贈与は「蕩尽」の顕現の一つでしかない。
これは決して贈与を軽々しく扱ったなどということを意味しはしないが。 
 
ところで私は贈与にある程度関心を持っているけれど
論文を書くにあたり、その一点に絞るだけの
特別な動機を今のところ持たない。
 
消費≒蕩尽にも私は「交換」を見ている。
私が人間の本質と考える「交換」について具体的に
書かれたテキストに私はまだ出会えないでいる。
 
しかしバタイユの普遍経済論は少なくない示唆を私に
与えてくれた。私はその第一部たる「呪われた部分」をしか
読んでいないけれど、あるいはその続きに取り組むのも
いいかもしれない。
第一部は類的な「蕩尽」を扱っている。
この後に続くなら、方向としてはより「個」へ近づくことに
なるのだろうか。この場合の「個」は単独者としての人間だ。
やはりキルケゴールの棘は私から抜けはしない。 
 
しかしエロティシズムにしても至高性にしても
バタイユの概念として難物であろうから
これからさらに進んでその難物を向こうにまわすか、
それともここで線引きするか、実は今が果断の時なのである。